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迷宮 (同人サークル) : ウィキペディア日本語版 | 迷宮 (同人サークル)[めいきゅう]
迷宮(めいきゅう、ラビリンス)は、漫画批評誌『漫画新批評大系』を刊行するとともに、同人誌即売会の『コミックマーケット』、創作同人誌即売会『MGM(Manga Gallery & Market)』創設の母体となったグループ。現在はコミックマーケットからは分離している。ただし、創業者特権でサークル参加での抽選を免除されている(帳簿上は、コミックマーケット創設時に迷宮からの借金でまかない、それが現在でも残っている代償ということになっている)。 == 概要 == 1975年4月創設。亜庭じゅん、原田央男(霜月たかなか)、米澤嘉博、高宮成河、式城京太郎が中心メンバー。関西系の批評集団「構雄会」・同人誌名『漫画ジャーナル』と関東にあった「コミック・プランニング・サービス」・同人誌名『いちゃもん』の中心メンバーが合流して結成された。亜庭、高宮が『漫画ジャーナル』、原田、式城が『いちゃもん』のメンバーであり、米澤は新グループ発足に当たって原田から勧誘されてメンバーとなった。メンバーの大半は大学を卒業し新社会人になっていた。今後もファン活動を続けるかという岐路にあったが、新グループを結成して「延長戦」を戦うことを選択した。「延長戦」は原田がそれまでの活動で培ってきた人脈をフィールドとして始められ、亜庭がゲームを主導する形になっていった。 全員がCOM世代であり、『COM』の自壊を目にしながら不満を口にするだけだった自分たちへの深刻な反省から自らを「運動体」と規定した。〔「『COM』なき時代にまんがに対して、単なるマニアが何をできるのか?/答えを求め、読者の側からまんがに働きかけようと有志が集まり、まんが評論サークル『迷宮』が発足した。/そして『まんが同人によるまんが同人誌即売会』の発想を得てその開催を画策した時、まずもって僕らが心掛けたのは、日本中のまんがサークルのネットワーク化を構想した『ぐら・こん』構想の、挫折の愚を繰り返さぬこと。即ち『COM』を、目的実現のための反面教師とみなすことだったのはなんとう皮肉だろう。」原田央男「『COM』の残滓と『コミケ』黎明期の熱い季節」『東京人no.341』(東京出版 2014年7月3日)37P〕まんがファンとしての「自分たちの場所」を作り出すことを目標として、漫画批評誌の発行、新たな形でのイベント創出を2本柱とした。亜庭じゅん が漫画批評誌『漫画新批評大系』の編集責任者、原田央男が同人誌即売会『コミックマーケット』の代表、米澤嘉博は両者のサポートという体制であった。後年原田が代表を辞任した後、米澤がコミックマーケットの二代目代表となり、亜庭は創作同人誌即売会『MGM』を主催した。〔「『迷宮』の結成、漫画新批評体系の刊行とコミックマーケットの開催は、COMの崩壊後、自分たちで始めた『ぼくらの延長戦』だったが、亜庭じゅんは、『MGM』で更にその先を一人で戦い続けた。」高宮成河「後記」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)830P〕全活動を一貫していたのは一介のまんがファンでしかないアマチュアに一体何ができるのかという意識だった。〔「正確にいえば僕らが作ったのはサークルでもクラブでもない。そこに集まって運動をなす者が構成員となるいわば『場』であって、その場に集う者が状況の中心になることを目指すことがその活動となる。そこまでいってしまうとさすがに建前になるかもしれないが、とにかく会員制ではなく、そのかわり活動の責任を負う構成員として僕や亜庭じゅん、米やんなどがいたのだということをわかってもらえればと思う。」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)117P〕
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「迷宮 (同人サークル)」の詳細全文を読む
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